定刻を過ぎて

1

あのね、バスを待っていたの。 幼女は続ける。 バス停は無かったけれども。 傘は持っていなかったけれども。 定刻を過ぎたが、バスは来ない。 幼女は泣きそうになった。 鞄の中を探ると、折り畳み傘がある。 調度良かったと、幼女に手渡す。 幼女は傘を広げた。五月のぬるい日差しの中で。

2

あのね、花冠を作ったの。 白い花、小さい花。 持つ場所を選ばなければ、簡単にほどけてしまうから。 持つ手の温もりは、簡単に枯らせてしまうから。 その冠は、幼女にすら小さすぎる。 少なかったから。ありったけを摘み、冠を為すことは叶わない。 少なかったのに。ありったけを摘み、あたりに一輪の花も無い。

3

あのね、猫がいたの。 幼女は猫を誘うが、猫はじいと伺うばかり。 問いかけたり、目をそらしたり。 猫は来ない。幼女も行かない。 無限の距離を、ふたつの想いが繋ぐ。 時は経ち、猫は彼方へ。 此方の幼女は、幼女のままなのに。 語られることはない。 猫が在ったことも、幼女が在ったことも。

4

あのね、涙が止まらないの。 世界中の奇跡をその胸に集めて、幼女は悲しくて仕方がない。 誰彼の呪いの言の葉を。 誰彼の怒りの眼差しを。 徒に握りしめる、その手の中には。 悪戯に微笑む、その口元には。 幾千の戦慄が潜むのだけれど。 それでも世界は、唐突に美しい。

5

あのね、嘘をついたの。 幼女は上着を脱ぎかけたが、思い直す。 なるほど、確かに肌寒い。 しかしなに、無理をすることはない。 せめて凍えないように居ればいい。 だけれど、どうか、その涙を見捨てないで。 雨空を見上げて、幼女が立っている。

6

あのね、空をとんでみたいの。 翼がないので。 空をとべません。 お金がないので。 空をとべません。 風が吹きました。 手を広げました。 大きく息を吸い込みました。
いつかとべるのですか。 いつ、とべるのですか。 それは叶わないことなのでしょうか。 きっと叶わないことなのでしょう。
叶わないことなのでした。 言葉は幼女を透き通る。 或いはこの手なら、触れ得たのかもしれない。

7

あのね、秘密。 話せるのは、ここまでなの。 見せたいものではないから、だから一人で見ていたくない。
大切なものだから。
だから重い、だから捨てられない、だから知ってほしい、だから触れたくない。 だからせめて。
ひらきかけて、腕に、手に、指に留めて。 焼けた空の下で必死に秘めた思い。
あの日、確かに影だけは届いた。 ただし決して追い越せはしない。 眠くなってしまうほど遠い場所から、 音擦れた囁きの意味を考えていた。